法隆寺の再建
法隆寺の創建は607年(推古15年)。
しかし、創建時の建物は、670年(天智9年)に焼失。現在残っている金堂や五重塔などの古くからの中心施設は、その後に再建されたものということになります。
それでは、再建は、いつ行われたのでしょうか。中門の仁王像や五重塔に安置されている塑造彫刻群は711年(和銅4年)の作であることがわかっており、金堂や五重塔はそのときすでに完成していたことになります。法隆寺は和銅年間に建てられたとする、平安時代の文献もあります。
ところが、五重塔の中心部を貫く心柱に用いられている用材は660〜670年に伐採されたものであることが、近年の研究でわかっています。これを単純にあてはめると、現在の五重塔は、670年の焼失以前に建てられた可能性が高いことになります。これまた、法隆寺をめぐる大きなミステリーです。
創建時と再建後の法隆寺は、ある意味で全く別の寺でした。聖徳太子が建立した時期の法隆寺は、時代の中心人物によって庇護された第一級の寺。
しかし、再建時は、太子とその一族はすでに消滅。有力なスポンサーはなく、近江や大和などの各地にあった領地からあがってくる収益に頼りつつ、資金に苦労しながらの運営が続けられていったと考えられています。
それから1300年。多くの木造建築物が崩壊したなかで、法隆寺だけが残ってきたのは、なぜなのでしょうか。技術的には、一定の期間で修理を行ってきたことが建築物を崩壊から防いできたといわれます。
しかし、それを推し進めてきたのは人の力であり、その背景には僧侶をはじめとする関係者が一丸となって聖徳太子を尊敬する熱い心があったのかもしれません。