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法隆寺と聖徳太子

法隆寺は、聖徳太子が建立した寺と伝えられています。

それでは、聖徳太子とは、どんな人物なのでしょうか。少し年長の人なら昭和初期には百円札、その後は千円札、五千円札、さらには一万円札を飾った人と言うでしょうが、その業績についてはあまり知られていません。

太子は574年(敏達3年)に用明天皇の第二皇子として生まれた人ですが、それは6世紀はじめに日本に渡来した仏教が少しずつ広まり、新しい文化として人々の心をとらえはじめた時代でした。
太子が長じて仏教の影響に強く染まっていくのは、必然だったとも言えるでしょう。

聖徳太子


そんな聖徳太子が病に倒れた用明天皇の回復を願って創建したのが法隆寺ですが、天皇は建設半ばに崩御。完成した法隆寺は、亡き天皇を供養する寺となりました。と同時に、太子は、法隆寺をとりまく斑鳩一帯を理想郷「天寿国」にしたいと願っていたといいます。

しかし、完成した法隆寺は、歴史の荒波の中にある寺でもありました。622年(推古30年)に太子が49歳で亡くなると、その22年後、かねてより対立関係にあった蘇我入鹿の軍勢がかつては太子も暮らした斑鳩宮を急襲。

その結果、斑鳩宮と太子一族はこの世から滅び去ることとなります。

軍勢の攻撃は法隆寺には及びませんでしたが、太子一族の消滅は、法隆寺にとっては有力な後ろ盾が消滅したことを意味します。巨大な寺院は、伽藍を維持していくだけでも莫大な資金を必要とします。

聖徳太子死後の法隆寺を待っていたのは、実は、とてつもない苦難の道でした。